皇居勤労奉仕団 御製と別れの盃 編

『戦(たたかひ)にやぶれしあとのいまもなほ

民のよりきてここに草とる』

昭和天皇陛下 御製

皇紀二千六百五年昭和二十年十一月、戦乱の為に荒れ果てた皇居での勤労奉仕を申し出た人物が二人現れました。既に、その起源についての概要をお伝えしました。今一度、当時の國内事情について振り返ってみたいと存じます。

今年は「令和」最初の年です。元号が変わった初めの年に、生まれて初めての皇居勤労奉仕。私事で誠に恐縮な事なのですが、皇居勤労奉仕団に参加の機会がございました。とても幸運な出来事と、感嘆を覚えずにはいられませんでした。

主に、電車で通勤しました。いずれも始発を逃すと、その日は参加の機会を失う。何事もなく、無事勤め上げる事ができました。それ故に、終戦間もなくその「志」を抱いた方々のことを知りたくなってしまいました。せめて、当時の社会状況を知る事で、少しでもその気持ちに寄り添いたい。日々、その様に思うようになりました。

ところで、「草莽之臣(そうもうのしん)」をご存知でしょうか? "goo 辞書"に「民間の有能な人材の事。在野の人。」と、紹介されています。また、「孟母断機」の逸話で有名な孟子の言葉としても知られています。

『女則廃其所食、男則堕於脩徳、不為窃盗、則為虜役矣。(女則ち其の食する所を廃し、男則ち徳を脩(をさ)むるを堕(おこた)れば、窃盗を為さずんば、則ち虜役と為らん。)』

女が生計を立てること止め、男が徳を修めることを怠れば、盗みをしないのでなければ、召使いとなってなってしまいます(出典: 漢文塾, https://kanbunjuku.com/archives/58 )。

ここで、「孟母断機」の逸話をご紹介したいと思います。孟子が学問を志していた頃、あまり進展を見せる事ができずにいました。タイミングが悪かったのでしょうか? 母親が機織りをしている最中に孟子が帰宅。

母親の質問に快い返事ができずにいたところ、機織り機を破壊してしまったのです。あぁ、何て気性の激しい女性なのでしょうか! それは我が子を思う"裏返しの愛情"其の物だったのです。

子を思う優しさと、激しい気性を兼ね備えた母を持つ孟子。その孟子の言葉が発した「草莽」。正しく、終戦間もなく皇居勤労奉仕に携わった方々には、「草莽」の言霊が宿っていたに違いありません。

ここで、古事記に明るい方は大国主命のお話を思い出したのではないでしょうか? 根之堅洲國(ねのかたすくに)で、須佐之男命は大穴牟遅神(大国主命)に幾つかの試練を与えます。

特に注目に値するのが、鳴鏑(なきかぶら)の矢を野原で拾って来るように命じた事です。大穴牟遅神が野原いるにも拘らず、須佐之男命は火を掛けてしまう。

その大穴牟遅神を鼠(ねずみ)が助けた時の事ですが、鼠にとってかなり迷惑な話です。でも、小さな存在である鼠は自己中心的ではなかった。自分が避難する事だけを考えて、大穴牟遅神の事など放って置く事もできたはずです。

少なくとも、その事は注目に値するのではないでしょうか? 兎に角、私達の國は自然災害が多い。上下の関係ではなく、横軸の関係が重みを持つ。小さな影響力しか持たない存在の協力の有無。しかし、彼らは大多数を占める。即ち、指導者の資質として、横軸の信頼関係が必要不可欠であった。

昭和二十年十一月、皇居での勤労奉仕を申し出た二人の人物と、実際に奉仕活動に携わった方々は「草莽之臣」である。その様に表現して差し支えないでしょう。それは、其々の心に「草莽」の志を宿すも、一人一人は小さな影響力しか持たない存在だったからです。

それでは、当時の食料事情、伝染病の流行、交通事情等に対して、具体的な数値を挙げて注目してみましょう。ウィキペディアから、日本本土の人口動向を探ってみました:

1935年(昭和10年)・69,254,148人(+7.5%)。

1940年(昭和15年)・73,075,071人(+5.5%)。

1945年(昭和20年)・71,998,104人(-1.5%)。

1950年(昭和25年)・83,199,637人(+15.6%)。

また、文部科学省のウェブサイトによると、900万人にも及ぶ國民が空襲による家屋の消失の憂き目に会い、戦後2年で復員や引上者が600万人にも及んだと記載されています。

更に、昭和20年夏は冷害、秋の水害による大凶作が追い打ちをかけます。私達の主食である米、稲の収穫高は前年の半分だったそうです。勿論、当時は米が配給されていました( http://food-mileage.jp/wp-content/uploads/2017/08/79_haikyu.pdf )。一日当たりに換算すると、約300グラム。お茶碗で2杯分。とても空腹を満たすことはできません。

伝染病の流行も座視できませんでした。抑々、発疹チフス・痘そう・コレラ等の伝染病は日本に常在しなかった。外地から復員や引上者の帰国に伴い、流行の引き金が引かれてしまう。

ここで、「買い出し列車」の写真を閲覧してみたい( WorldTravelog, https://worldtravelog.net/2012/10/showakan-2/ )。ドアからの乗車ではなく、「窓」から乗り込んでいる様子が印象深い。初の勤労奉仕団は、現在の宮城県栗原郡から上京。当時の交通事情も注目に値します。

宮城県栗原郡からやって来た彼らは「みくに奉仕団」と称しました。「国史を考えるホームページ」によると、昭和天皇の侍従を務めた木下道雄(きのしたみちお)氏と推定される人物の証言が紹介されています。当時、占領下にある日本で、GHQ がどの様な対応をするのかは未知数である。団員の中には水盃を交わした参加者がいたそうです。

0コメント

  • 1000 / 1000